陸上競技絶対主義者のblog(過去記事)

陸上競技を偏愛する人の独り言です・・・。

「1月17日」

もう、あれから12年になる。

今でも時折彼の映っているVを見る。
1994年(平成6年)第56回関西学生対校駅伝。当時は毎日放送MBS)が1時間に編集したものをレース当日(というか翌日)の真夜中2時くらいから放送していた。今の讀賣テレビのように事前取材したVがある訳でもなく、地味でオーソドックスな(ある意味素朴な)作りの番組だった。とりあえず1区→2区の中継とアンカーのゴールは全チーム映してくれたのが今となっては非常に貴重(今は1区の中継もアンカーのゴールシーンも上位の数校だけやもんね)。


私の母校はその年、6年間守り続けた関西学生対校駅伝のシード権を失った。私はOBを代表して監督車(と言っても相乗りのマイクロバスだが)に乗りほぼ全ての区間を観戦していたこともあり、レース終了後の全体ミーティングの場では当時の現役幹部・メンバーをひどく叱責した記憶がある。嫌な役回りだなと思いつつも、誰かが代表して厳しいことを言わなければと考え、普段よりかなり強い口調だった。幹部だった彼も責任を感じていたようで、OBへの報告書では「本当に申し訳ありませんでした」と反省の弁を述べていた。

実際あの頃は多忙な社会人であるにもかかわらず休日には必ず部に顔を出し、練習も一緒にしていた。対校戦もほとんど行ってオープンレースまで走っていた程だったので、母校のチーム状態はほぼ完璧に把握していた。ある意味当時は最も客観的に母校の選手を見ることのできる立場にいたのだが、私はチームのオーダーには一切口を挟まなかった(実際私が現役のときOBに駅伝のオーダーまで口出しされたら相当嫌だったと思うので)。ただ、現役部員から駅伝のオーダーを報告されたときには一抹の不安と違和感を感じた(実際その不安と違和感は残念なことに見事に的中することとなる)。しかし自分は監督車には乗るが、全権委任を受けた駅伝監督でも何でも無い一OBなのだから学生に任せようと自らに言い聞かせた記憶がある。

その年の私の母校は1区からぶっちぎり(というかぶっちぎられ)の最下位だった(悪い予感がいきなり的中)。
Vを見ていると、私の乗った監督車が1区中継点を通り過ぎるとき、バスの窓から身を乗り出して2区の選手(もちろん彼)に必死に何かを叫んでいる私が映っている。ボリュームを大きくして聞くと、私の叫びに対し誰かが大声で返事を返しているのが聞こえる。最初はよくわからなかったが繰り返しその場面を再生すると、どうも彼の声に似ている。いや、間違いなく彼だ。繰り返しそのシーンを巻き戻して見直し、確信した。なぜならあの時2区の選手に大声で指示らしきものを叫んでいたのは私だけだったから。

確かあのときは1区の状況を伝えようと「かなり遅れてくるからな!」と2区の彼に叫んだ記憶がある(当時は携帯なんて便利なものは普及してなかったもんで・・・)。後日彼が書いた練習日誌には確か〔Douglasさんが何を言っているのかわからなかったが、多分「頑張れ」という意味のことをいっているのだと思い、「はい、わかりました!」と大声で叫んだ〕とあったように思う。しかし実は激励などする余裕すらこっちにはなかった(シード落とすんちゃうかと一人で〔監督車の中なので誰にも言えず〕あせりまくっていた)。

前述の通り毎日放送は1区→2区はどんな状況であってもとにかく全大学の襷渡しを映してくれたので、遅れた1区の選手を待つ2区の彼の姿は非常に長くTVに映り続けていた。なかなか来ない1区の選手を待つ彼。今にも泣き出しそうな表情だが、我が母校の襷を一刻も早く次の走者につなぎたいという使命感に燃えているいい顔だった。

彼を最後に見たのは前々日(1月15日:日曜日)の昼頃。その年の3月に篠山マラソン(これも地震で中止になった・・・)を控えていた私は母校の練習がフリーだったその日もグランドに行き、練習を終えてシャワーを浴びていた。そこに彼がやってきた。
彼は前日の土曜日(1月14日)には就職準備のための試験?か何かを受けに行っていたらしく練習を休んでいた。その分を補うべくフリーの日に自主練習をしていたようだ。
私は自分の着替えを済ませると「じゃあ、お先に。お疲れさん。」と彼に言ってそのまま自宅へ帰ってしまったのだが・・・。結局それが最後となってしまった。

そしてその2日後の朝。20数秒の揺れが全てを破壊してしまった。私の母校の周辺は大きな被害を受けた。下宿生の多い母校だったが、ほとんどは安いボロアパート住まい。鉄筋コンクリート造のワンルームマンションなんて洒落た所に住んでいるのはほんのごく一部。多くの学生が古い建物の下敷きとなった。

彼もその一人だった。

当日朝、彼と同じように母校の周辺で下宿していた部の仲間は間断なく繰り返し発生する余震の中、「あいつの所は危ないんちゃうか。」と仲間の下宿を1件ずつ確認のため走り回ってくれたそうだ。実際、建物の中に埋まっていたのを掘り起こされ、生き延びた強運な陸上競技部の後輩もいた。しかし残念なことにほとんどの学生は非業の死を遂げた。

彼が亡くなったことを知ったのは地震から3日目の夜だったと思う。テレビでは延々とお亡くなりになられた方の名前が読み上げられ、映し出される。突然見覚えのある名前がブラウン管に現れ、私の視線が釘付けになる。まさか・・・。いや、間違いない(彼の「姓」は非常に珍しい「姓」なので、まず別人と間違うことはありえない)。本当にショックで動くことが出来なかった。泣く気にもなれないくらい全身の力が抜けていったことを今でも思い出す。

彼の死は当時の「月刊陸上競技」にも採り上げられた。確かこんな文章だったと思う。
「各校のマネジャーに連絡を取るうち、○○大学の△△君が亡くなったことを知る。○○大学では副将をつとめ、関西学生駅伝では2年生のときアンカー、昨年は2区を走りチームの中心選手だった。ご冥福をお祈りする。」

2ヶ月ほどが過ぎ、道路状況も多少はましになってきたところでようやく彼の実家へお線香をあげに行くことができた。まだ兵庫県全体が混乱している中、とてもお墓を立ててあげられる状況では無いためまだ彼はお骨のままだった。
ご家族の方が「一瞬で(圧死)だったみたいです。でも顔はとてもきれいだったので・・・」と教えてくださった。何とも答えようがない話だったのでその時は何も答えられなかった。しかしいろいろな事故でお亡くなりになった方々のことを考えると「顔がきれい」というのはご遺族の方にとってはせめてもの慰めだったんだなあと今更ながらに思う。

それにしても。こういうときになくなるのは大体「いい奴」。彼はチームのみんなに若干「オモチャ」にされるところはあったが、いつもニコニコして本当に明るい「いい奴」だった。

彼が生きていればもう32歳。感慨深いものがある。

先日大学の慰霊塔まで走りに行き、手を合わせた後で彼の元下宿跡地まで行った。周辺は再建された家やアパート、更には再開発による高層ビルが多く立ち並んでいるが、下宿跡は12年経ってもまだ更地のままだ。

もう一度手を合わせて彼のことを思い出し、改めて誓った。「お前のことは絶対忘れない」
生き残った我々にできること、それは「忘れないこと」しか無いから。